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薩摩琵琶
そもそも琵琶が日本に伝わったのは、おそらく仏教伝来のことであろうといわれている。その後、奈良・平安時代に都を中心に大流行したが、1467年に起こった応仁の乱を境に衰退し、琵琶弾き達も辺境の地に散らばっていった。
薩摩琵琶に関していえば、文治2年(1186)初代島津忠久が源頼朝の命を受け、薩摩国の地頭職として鎌倉から九州へ下向する際に妙音寺常楽院第19代宝山検校を伴ったことに端を発する。
宝山検校は本尊妙音天を棒持して忠久に従って日置郡田尻(現、吹上町中島)に常楽院の建立を受けて住み、薩摩、大隅、日向三州の盲僧の指導にあたり、弟子達と共に諸方を遍歴行脚しながら万民の利済を祈った。これが薩摩琵琶の源となる、南九州での地神盲僧琵琶の発祥である。
時代は変わり、室町期になって南九州では島津氏中興の祖と呼ばれた島津忠良(日新公)は三州統一に力を注ぎ、領地内の志気をを鼓舞してきた。忠良は当時、琵琶弾奏の名手とうたわれた伊作常楽院第13代淵脇長寿院の妙音を聴き、これに青少年の徳育情操に役立つよう工夫をすることを考えた。
忠良はまず、自ら適当な琵琶歌を作り、一方、長寿院には、従来の琵琶より装飾のない、太い鳴りがするよう改良させた。以後、島津家では、第17代島津義弘の時、戦記物語と「崩れ」という弾法が編み出され、第25代重豪の頃には、時世を反映して情緒物とよばれる琵琶歌が作られた。
この頃になると、青少年育成の場である郷中では琵琶の名手であった盲僧達を招き、毎年1〜2回座頭講が開かれるようになった。第29代島津忠義の代になると、自ら琵琶を作って宮中・宮家へ献上したという記録もある。
特に明治天皇は忠義の影響で薩摩琵琶を好まれ、忠義は、明治14年に天皇・皇后両陛下を自邸にお招きし琵琶会を催したことも残されている。
薩摩琵琶の楽器的特徴は、楽器自体が大ふりであること、弦が4本で柱と呼ばれるフレットが4つであること。表板が大きく湾曲していることなどである。材質は桑が一番とされ、本体内を空洞にくりぬき、熱湯につけ込んで反りを持たす。それを裏板と膠ではりあわせる。しかし近年は材質となる太い桑の木も手に入りにくく、代材として桜、櫟(くぬぎ)などが使われることもある。
弾奏者は正座して琵琶をほぼ垂直に構え、目を半眼にして弾く。右手には扇のように大きな柘植でできた撥を持ち、弾くというよりは叩きつけるように打つ。基本的に譜面はなく、師弟制度も確立していない。
昔から入門者は郷中のこれと思う先輩のところへいき、口伝えで手ほどきを受けた。
したがって月謝もなく、進級制度もない。鹿児島では現在もほぼこのような環境で受け継がれている。
現在、鹿児島には薩摩琵琶同好会があり、約20〜30名の会員が稽古に励んでいる。
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