ごあいさつ 理事長 島津義秀 (島津義秀プロフィールはコチラ

平成15年(2003)、6月12日に鹿児島県で初の青少年育成事業のNPOと して県の認証を頂きました。

鹿児島は、かつて薩摩と呼ばれていた頃から、次代の節間節目に何らかの形で関わってきたことはみなさんご承知のことと思われます。その歴史の流れの中にあって、 我々の先人たちは私心を捨てて物事に対処してこられたのであります。

このような姿勢はいったいどのようにしてはぐくまれてきたのでしょうか?

ここに再び歴史をひもとけば、薩摩には「いろは歌」の教えというものが脈々と継承されてきたことを知らされてます。伊作(いざく)島津家の出身である島津日新斎 (じっしんさい)(忠良)は乱世の時代にかけている道徳観を、青少年の内に教育することが急務であると考え、当時の薩摩に存在した、日本の最高学府であった薩南学派の桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)の薩南学派思想に則り、神道と仏教と朱子学を元にした独特の思想観で「い」「ろ」「は」・・・の文字をそれぞれ頭に関して作った47種の道徳的和歌を作り、文字の読めない女性や子供に普及させるべく、仮名交じり文で記したのでした。

時代は流れ、日新公の孫であった第十七代島津義弘公はその85年の人生において大小約50もの戦に参戦し、慶長5年(1600)天下分け目の戦いとうたわれた関ヶ原の戦では運命のいたずらのためか西軍に与したため負け戦となり、戦場においては最後の最後まで陣を動かすことなく、手勢三百名となったとき初めて目前の敵将、徳川の陣地をめがけて突っ切るといういわば無謀とも思える行動に撃って出ました。

しかしここに義弘公の凄さがあり、公は祖父の日新公の教え通り「たとえ、先に戦に負けることがあっても、後のとじ目を肝要とするものなり」という戦後処理のことまで考慮した上での恥じることのないような行動を心がけた訳であります。

そしてここで示された公の「不撓不屈(ふとうふくつ)」の精神は後年、薩摩の若者たちの精神鍛錬等に受け継がれていくようになり、郷中教育(ごじゅうきょうい く)という薩摩独特の教育制度の中ではぐくまれていることとなりました。

さて、今日私たちは鹿児島の町を歩いていて、かつての明治維新を起こした気概といいますか迫力をこの市中に見いだすことがどれだけできますでしょうか?

私が考えますに、鹿児島はどこにでもある一地方都市であってはならないのであります。なぜなら百数十年前には薩摩から日本全土が一大構造改革をなしえたからであります。いま、鹿児島からどれだけの優秀な逸材が日本を否、世界をリードしているのでしょうか?

本来ならばそういった話がもっと聞こえてきてもいいはずではありませんか。
ではなぜ聞こえてこないのか。

人材が育っていないからであります。人材を教育するのは、もともと薩摩のお得意芸であったはずです。そうした人材育成のための教育をしてこなかったのであれば、一刻も早く着手せねばなりません。逸材の排出は突然変異では出現しないのです。百年以上のスパンをもって教育に着手してこそ真のリーダーシップが担える人材が育つと思います。

私ども「特定非営利活動法人 島津義弘公奉賛会」は、そうした主義の元に、義弘公の不撓不屈の精神と、薩摩の歴史に関わってきた先人たちの知恵と勇気に、本物を通じて学びながら、新しい時代を担う国際社会でリーダーシップを発揮できる人材を養成することを第一の使命と考えております。

その効果は、目先にすぐに顕れる訳でもなく、何の見返りも、報酬も我々自身の元には直接返ってくるとは思えません。しかし、百年後に花を開かせるその課程に我々が携わっているのだと考えれば、その大きな夢と期待が、報酬となるでしょう。

皆様方のそうした無私のお志が、将来の世界を担う人たちの支えに生かされることを祈年致しましてご挨拶と代えさせていただきます。



島津義秀プロフィール  

昭和39年(1964) 大阪府生まれ
父親の転勤に伴い、大学卒業まで東京育ち。大東文化大学文学部英米文学科卒業の後、母方の里である鹿児島県加治木町へ単身移住、株式会社島津興業へ入社後、仙巌園企画課長を最後に、十三年間勤続した島津興業を退職。
平成 5年(1993) 精矛神社宮司に就任
平成12年(2000) 関ヶ原合戦四百年記念イベントを鹿児島県とタイアップして興し、次世代を担う青少年育成現場「青雲舎(せいうんしゃ)」を五人で再興。
平成15年(2003) 青少年育成事業を柱の一つに掲げたものとしては県内初のNPOに認証される。現職・精矛神社(くわしほこじんじゃ)他十三社の宮司 特定非営利活動法人島津義弘公奉賛会理事長